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12.oh.9

吸って吐いて、また吸って。

ステーシーズ 少女再殺全談

www.amazon.co.jp

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筋肉少女帯の作品に、再殺部隊という曲がある。

14から16歳までの少女が歩き回る屍となり、愛する者に殺されるという歌だ。

リリースは1996年、収録アルバムは「ステーシーの美術」。

その前年に、大槻ケンヂの名で一つの小説が発表されている。

それが今回お話しする作品、ステーシーズだ。

 

 

二十一世紀初頭、ある日突然15,16,17歳の少女達が死んだかと思えば、

ステーシー、ハイチの言葉で言うゾンビとなり、蘇るようになった。

彼女たちは肉を食らおうと徘徊し、噛まれた者は死んでしまう。

そんな少女達に対抗する手段はただ一つ。

 

百六十五以上の肉片にバラバラにする。

 

死が近づいた少女達は皆、理由のない多幸感に包まれ、

ニアデスハピネスと呼ばれる笑顔を見せるようになる。

症状を自覚した少女は運命に抗うことなく、

よく笑い、意味のない冗談を言い、その日を待つのだ。

 

百六十五以上の肉片、という言葉から分かるように、

この作品は容赦ないスプラッター表現に溢れ、グロテスクである。

だがそれでも、不思議と救いのない残酷さのようなものは感じない。

それは、この作品が少女達への愛で溢れているからなのかもしれない。

 

ステーシーになった少女達は皆、

獣のように呻き、

蛇のように舌を出し、

最期は潰れたトマトのように始末される。

それは一目見ただけで惹かれるほど美しい少女にも、

自身の容姿にコンプレックスを抱いている少女にも、

畸形と呼ばれる、

目が三つあったり、唇が二つあったり、

腕が三本あったり、乳首が七つあったりする少女にも、

必ず訪れる事。

人の目が気になる年頃の少女を、平等な結末へ導く。

 

ステーシーは再殺部隊の男達に拘束され、

時にダルマ落としのように体をバラされ、

時にタコのように四肢を折られ、最後は死ぬ。

しかし彼女達の体は決して性的に弄ばれることはない。

体内分泌液が人々に死をもたらすからだ。

返り血を浴びても何ともないのに、粘液は人を殺すのである。

14歳にしてステーシーになる運命に怯えて自殺する少女もいる。

ステーシーになる運命によって少女達の純潔は守られ、

彼女達は永遠に本物の少女であり続けるのだ。

 

ニアデスハピネスを発症した少女は、

できる限りのおしゃれをして、

心を寄せている少年の家を訪れる。

彼女達は死ぬ前に自身の純潔ではなく、

ステーシーとなった自分を殺す権利、

再殺の権利をもらってくれないかと頼むのだ。

”あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ”

と歌ったアイドルがいたが、

死の運命に直面した時、

それは自身の命に干渉する事なのかもしれない。

 

ステーシーを通じて、人々はこの世の不条理を知る。

不条理とはどうにもならないことであり、

各々の主観で受け止める他に対処の方法がない。

仕方のないことと考えステーシーを殺し続ける男、

死に別れてもステーシーになって再会できるのならチャラだと言う少女、

周りの人と同じになれない自分にしか出来ないことで大暴れする少女、

ステーシーになる少女を好きになるのも仕方ないと受け止める少年、

様々な主観が、ステーシーという不条理を通して描かれる。

 

ステーシーが見せるものは不条理だけではない。

人の罪、彼女達はそれも見せつける。

生きている限り生まれる、どうにもならない罪を見せつける。

しかしステーシーはそれらを許し、受け入れ、黙認する。

 

人に不条理をもたらし、救うもの、それがステーシーなのだ。

 

制服、お化粧、ニーソックス。

ヒーロー、プロレス、巨大ロボット。

女の子の特権と男の子のロマンがミルクとコーヒーのように渦巻く世界。

血の海を泳いで愛に辿り着くような物語。

 

「冬を哀しみ、春を夜明けと捉えるのは、これまた主観の問題だ。」

 

寒い日々もようやく終わりを迎え、

暖かい日が増えてきた今日この頃にピッタリの一冊ではないだろうか。

 

読んでいると著者の声が読み聞かせてくれているような気分になるので、

読む時はあらかじめ筋肉少女帯の楽曲を聴いておくことをお勧めする。

 

 

また何かあったら書きます。